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素晴らしい人生のために/今日の応援歌
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┠●┼┨ 発行/2002.09.04
┠┼○┨ 素晴らしい人生のために/今日の応援歌 【第 132 号】
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●人生を生きていくとき、くじけそうになることはありませんか?
人生が素晴らしいものであるよう、素敵な言葉の応援歌を送ります。
ぜひ、お読みになった感想をお寄せ下さい。ほんの少しの言葉で結構です。

----------◆CONTENTS◆------------------------------------2002 vol.132--
「エルトゥ―ルル号の遭難」 〜生命の光から〜 中村 豊秀
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辛いニュ―スが多い世の中にほんの少しやさしさを取り戻せる、この『小さな歴
史の物語』が、また、あなたに何かを思い出させてくれることを・・・・

和歌山県の南端に大島がある。その東には灯台がある。
明治三年(1870年)にできた樫野崎灯台。今も断崖の上に立っている。

びゅわ―んびゅわ―ん、猛烈な風が灯台を打つ。
どどど―んどどど―ん、波が激しく断崖を打つ。

台風が大島を襲った。明治23年9月16日の夜であった。

午後9時ごろ、どどか―んと、風と波をつんざいて、真っ暗な海のほうから音
がした。灯台守(通信技手)は、はっきりと その爆発音を聞いた。

「何か大変なことが起こらなければいいが」

灯台守は胸騒ぎした。しかし、風と、岩に打ちつける波の音以外は、もう、何
も聞こえなかった。

このとき、台風で進退の自由を失った木造軍艦が、灯台のほうに押し流されてき
た。全長七十六メ―トルもある船。しかし、まるで板切れのように、風と波の力
でどんどん近づいてくる。
あぶない! 灯台のある断崖の下は「魔の船甲羅」と呼ばれていて、 海面には岩
がにょきにょき出ている。

ぐうぐうわ―ん、ばりばり、ばりばりばり。

船は真っ二つに裂けた。その瞬間、エンジンに海水が入り、大爆発が起きた。
この爆発音を灯台守が聞いたのだった。
乗組員は海に放り出され、波にさらわれた。またある者は自ら脱出した。 真暗
な荒れ狂う海。どうすることもできない。波に運ばれるままだっ た。そし岩に
たたきつけられた。 一人の水兵が、海に放り出された。大波にさらわれ岩にぶ
つかった。意識を失い、岩場に打ち上げられた。

「息子よ、起きなさい」
懐かしい母が耳元で囁いているようだった。

「お母さん」
という自分の声で意識がもどった。

真っ暗な中で、灯台の光が見えた。
「あそこに行けば、人がいるに違いない」

そう思うと、急に力が湧いてきた。40メ―トルほどの崖をよじ登り、ようやく
灯台にたどり着いたのだった。
灯台守はこの人を見て驚いた。服がもぎ取られ、ほとんど裸同然であった。顔か
ら血が流れ、全身は傷だらけ、ところどころ真っ黒にはれあがっていた。灯台守
は、この人が海で遭難したことはすぐわかった。

「この台風の中、岩にぶち当たって、よく助かったものだ」と感嘆した。

「あなたのお国はどこですか」
「・・・・・・」

言葉が通じなかった。それで「万国信号音」を見せて、初めてこの人はトルコ人
であること、船はトルコ軍艦であることを知った。また、身振りで、多くの乗組
員が海に投げ出されたことがわかった。

「この乗組員たちを救うには人手が要る」
傷ついた水兵に応急手当てをしながら、灯台守はそう考えた。
「樫野の人たちに知らせよう」

灯台からいちばん近い、樫野の村に向かって駆けだした。電灯もない 真っ暗夜
道。人が一人やっと通れる道。灯台守は樫野の人たちに急を告げた。
灯台にもどると、10人ほどのトルコ人がいた。全員傷だらけであった。 助け
を求めて、みんな崖をよじ登ってきたのだった。

この当時、樫野には50軒ばかりの家があった。船が遭難したとの知らせを聞い
た男たちは、総出で岩場の海岸に下りた。だんだん空が白んでくると、海にはお
びただしい船の破片と遺体が見えた。目をそむけたくなる光景であった。
村の男たちは泣いた。

遠い外国から来て、日本で死んでいく。男たちは胸が張り裂けそうになった。

「一人でも多く救ってあげたい」
しかし、大多数は動かなかった。

一人の男が叫ぶ。
「息があるぞ!」

だが触ってみると、ほとんど体温を感じない。
村の男たちは、自分たちも裸になって、乗組員を抱き起こした。自分の体温で彼
らを温めはじめた。

「死ぬな!」
「元気を出せ!」
「生きるんだ!」

村の男たちは、我を忘れて温めていた。次々に乗組員の意識がもどった。船に乗
っていた人は600人余り。そして、助かった人は69名。この船の名はエルト
ゥ―ルル号である。

助かった人々は、樫野の小さいお寺と小学校に収容された。当時は電気、水道、
ガス、電話などはもちろんなかった。井戸もなく、水は雨水を利用した。サツマ
イモやみかんがとれた。
漁をしてとれた魚を、対岸の町、串本で売ってお米に換える貧しい生活だ。ただ
各家庭では、にわとりを飼っていて、非常食として備えていた。

このような村落に、69名もの外国人が収容されたのだ。島の人たちは、生まれ
て初めて見る外国人を、どんなことをしても、助けてあげたかった。だが、どん
どん蓄えが無くなっていく。ついに食料が尽きた。台風で漁ができなかったから
である。

「もう食べさせてあげるものがない」
「どうしよう!」
一人の婦人が言う。
「にわとりが残っている」
「でも、これを食べてしまったら・・・・・」
「お天とうさまが、守ってくださるよ」

女たちはそう語りながら、最後に残ったにわとりを料理して、トルコの人に食べ
させた。こうして、トルコの人たちは、一命を取り留めたのであった。また大島
の人たちは、遺体を引き上げて、丁重に葬った。

このエルトゥ―ルル号の遭難の報は和歌山県知事に伝えられ、そして明治天皇に
言上された。明治天皇は、直ちに医者、看護婦の派遣をなされた。さらに礼を尽
くし、生存者全員を軍艦「比叡」「金剛」に乗せて、トルコに送還なされた。
このことは、日本中に大きな衝撃を与えた。日本全国から弔慰金が寄せられ、ト
ルコの遭難者家族に届けられた。

次のような後日物語がある。

イラン・イラク戦争の最中、1985年3月17日の出来事である。
イラクのサダム・フセインが、
「今から48時間後に、イランの上空を飛ぶ、すべての飛行機を撃ち落とす」
と、無茶苦茶なことを世界に向けて発信した。
日本からは企業の人たちやその家族が、イランに住んでいた。その日本人たちは
あわててテヘラン空港に向かった。しかし、どの飛行機も満席で乗ることができ
なかった。世界各国は自国の救援機を出して、救出していた。日本政府は素早い
決定ができなかった。空港にいた日本人はパニック状態になっていた。

そこに、二機の飛行機が到着した。トルコ航空の飛行機であった。日本人二百十
五名全員を乗せて、成田に向けて飛び立った。タイムリミットの一時間十五分前
であった。

なぜ、トルコ航空機が来てくれたのか、日本政府もマスコミも知らなかった。
前・駐日トルコ大使、ネジアティ・ウトカン氏は次のように語られた。

「エルトゥ―ルル号の事故に際し、大島の人たちや日本人がなしてくださった献
身的な救助活動を、今もトルコの人たちは忘れていません。私も小学生のころ、
歴史教科書で学びました。トルコでは、子どもたちさえ、エルトゥ―ルル号のこ
とを知っています。今の日本人が知らないだけです。それで、テヘランで困って
いる日本人を助けようと、トルコ航空機が飛んだのです。」

( 文・のぶひろ としもり)

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[133]
┏┯┯┓input-alpha/mail magazine ( 10 ) =============================
┠●┼┨ 発行/2002.09.11
┠┼○┨ 素晴らしい人生のために/今日の応援歌 【第 133 号】
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----------◆CONTENTS◆------------------------------------2002 vol.133--
TV寺子屋「気になる子への対応」 教育評論家 坂本 光男先生
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新しい教育基本法が施行されて、実際にゆとり教育が始まっている。週6日から
週5日制に変わって、幾つかの問題点がでてきている。

一つは、土曜日に働いているお父さんやお母さんが、多いということだ。そこで
両親が外へ出ていて、子供だけ家に残ること。北海道などは1,2割が親が家に
いるという状態だ。

二つ目に学校教育の方も6日分を5日間に詰め込むのに無理があるようだ。少し
時期尚早の気がする。もう少し両親の働く環境や、その他の整備が必要だと思わ
れる。学校にもとまどいが出ているようだ。

子供達も土曜日に宿題が増えて、悲鳴をあげている。学校の授業なら息抜きがで
きるが、宿題の方が辛いというのだ。もう少し先生と生徒、先生と親達の懇談会
が持たれるべきだと思う。

今日はそんな背景の中での、「気になる子への対応」ということをテ―マにして
お話したいと思います。どいうことに注意しなければならないかということにつ
いてです。

20年ほど前は、何人かの特定の子供達が問題になっていたが、暫くすると普通
の子供が危ないという時代になってきた。問題のある子供、学校崩壊、集中でき
ない、落ち着かない子供が増えてきた。これは社会現象だ。

ただここで考えておきたいことは、こういった子供たちが決して生まれた時から
そうだったのではないということです。社会の環境、大人達の対応が大きく影響
していることを踏まえて考えてみて欲しいのです。

1.集中できない子供
落ち着かない、話が聞けない、何かやってないと気がすまない。小学校から学校
崩壊が始まっている状態だ。先日ある授業を見に行ったが、校長以下、何人かの
先生が後ろに立ってるのだが、全然気にしない。すっと立ってそのまま黙って明
るく廊下へ旅に出て行く。

2.切れる子供
何で切れるのか分からないが、一寸したことで、突然切れる。廊下で寝転んでバ
タバタあばれている。中学になると、道具や刃物を使って、かかってくるように
なる。

3.黙っている子供
覚めている子供が増えました。不気味です。何を考えているのかわからない。皆
が笑っているのに一人だけ笑わずにシレッとしていて、あとから一人でニヤッと
したりする。皆が質問しても、その時は何も言わない。そしてあとから、廊下で
「先生」と質問してくる。

人間は皆同じではない。ケ―スバイケ―スいろいろあるが、じっとたどって見て
いると、ああこれだと見えてくることがある。でもそのまま全部見ていると振り
回されて、見うしなってしまう。バラバラになる。

大人がある程度の基準を持った視点で、そういった子供達へ対応していく必要が
あると思う。その意味で、ああこれはもう駄目だとか、仕方がないと諦めずに大
人がちゃんと見てやらないといけないと思う。

さて、上記の三つの点に対応するには、必ず下記の六つのことを、子供達にする
必要がある。子供が育つ時には、必ずこの六つの要素が必要になってくる。とて
も重要なことなのです。

1. 安心感を持たすこと。安心できる環境。心の居場所を持つこと。
2. 対話をすること。対話の豊かな家庭。信頼感が沸いてくる。
3. なんでもできること。子供が何かができるということが自信になる。
4. 楽しく遊ぶこと。遊びを全然しないと大人になって、おかしくなる。
5. 友達を作ること。遊び友達が大事なのだ。
6. わかること。勉強もさることながら、良いことと悪いこととがわかること。
やっていいことと、してはいけないこと、皆のなかで自分はどうしなければ
いけないかがわかること。

前記の三つの点の分析

1.集中できない子供
テレビを一日中つけっ放しの家庭。常にうるさくて、静な時と、賑やかな時との
区別がつかなくなっている。楽しむ時と、何かをやる時との区別もつかない。夢
中になることがない。夢中になってやると終ったらホットする。夢中で遊んでい
ないと不満が溜まってくる。

褒められたことがない。褒めるということは、いいことをした時だ。叱るという
ことは、悪いことをした時だ。いいことと悪いことの区別がつかない。
これは何も子供のせいじゃない。親が静かに叱ったり、落ち着いた雰囲気の中で
ほめるという環境を作ったりすると変わってくる。

2.すぐ切れる子供
少子化の傾向があり、そのせいでおいしいものを兄弟で分けて食べるという経験
がない。又お母さんも好きなものだけを作ってくれたり、外で食事をしたりした
時、これが好きだと言ったらママのも食べなさいと言われて、自分の欲しいもの
は全て手に入るものだと思い込むようになっている。我慢ということを身につけ
る習慣がない。これを直すようにする。

TVを夢中で見てる子供には、TVを止めろというよりは、「何時まで見るの」
とか、「何時に寝るの」と聞いて、その約束の時間が来たらちゃんと守るという
習慣をつけたらだんだんそうなってくると思う。
待ってやる。パニックは周りに誰がいるかで違ってくる。子供も気に入らないと
暴れる。皆でさっといなくなる。今の時代は、何でも早く早くばかりだ。。子供
が少ないと分けて食べる。お母さんがたべなければ冷蔵庫に入れておけばいい。

3.黙っている子供。
話を聞いてくれる相手をさがしている。
うなづいて、よかったね、そうだね、辛かったろうと真剣に聞いて上げる。感動
は心を動かす。不安があると黙っている。安心すると話すようになる。

かって小学校の教員をしていた頃、福ちゃんという子供が、まさにその通り何も
言わない。そこで鬼ごっこや、かくれんぼに一緒に参加して、二人で隠れて、「
鬼が来たら教えてくれよね。来たか、まだか、よし、逃げよう。助かったな」や
がて福ちゃんが「この次も一緒に遊ぼうよ」と言うようになりました。

人間は誰しも、黙っているのが好きなのは一人もいない。
家庭でもお父さんが夕飯の時、黙って食事をしていると、何か機嫌が悪いのだろ
うかとみんなが不安になる。ある高校生が歌を作りました。
「父よ何か言ってくれ。母よ何も言わないでくれ」
食べてる最中に勉強のことは言わないこと。「そろそろ期末試験だけど、大丈夫
なの。平均点はどう」

お母さんが「あなたを生んでよかった」。お父さんが「いつも遅くてなかなか一
緒におれないけれど、いつもお前達のことを考えているんだよ」
先生が「先生は皆が大好きだ。お父さん、お母さんの大事な子供を預かっている
んだから、決してひいきしたりしないよ」
こういう環境の中ではじめて、いい子供が育つのだ。大人が時間をかけて子供を
育てるのだ。押し付けたり、縛るのではない。

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[134]
┏┯┯┓input-alpha/mail magazine ( 10 ) =============================
┠●┼┨ 発行/2002.08.18
┠┼○┨ 素晴らしい人生のために/今日の応援歌 【第 134 号】
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●人生を生きていくとき、くじけそうになることはありませんか?
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----------◆CONTENTS◆------------------------------------2002 vol.134--
[有難う!センポ杉原] H.C.C 中村豊秀
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杉原千畝さんといえば、知る人ぞ知る、第二次世界大戦中の元駐リトアニア日本
領事館の領事です。ナチに追われ殺戮寸前にあったユダヤ人に、当時ドイツとの
間に日独軍事同盟があったことから、日本政府の許可しないという命令を無視し
て、わが身を顧ず独断でビザを発給し、6000人の命を救い日本の人道の歴史
にこの人ありと知らしめた、気高い人物である。

外交官として、国のいかなる重責、使命があろうとも、人の命を最優先するとい
う自己の信念に基づいて決断し、行動することは誰にでもできることではない。

外交官というエリ―トの立場にあって、それを棒に振るばかりでなく、社会運動
家、大杉栄が甘粕憲兵大尉によって、絞殺されたように、主義主張のためなら暗
殺をも辞さない右翼思想の強かった軍事政権下で、国の命令に背いた者は命まで
も危うくなることが考えられる時代であったからである。

ここで、杉原領事がどんな想いでビザを発給していたのかと、57年前に想いを
馳せる。酪農国で美しい平原と湖の国のこの丘に、幾多のユダヤ人たちが命のビ
ザを求めて連日殺到していたのだ。
ポ―ランドに侵攻したナチの虐殺から逃れて、難民受け入れを表明してカリブ海
のキュラソ―島に脱走するには、リトアニアとロシアを通過するビザが必要だっ
た。それらの国もまた通過先の日本のビザが必要とあってのことだった。

「杉原さん、ビザを下さい」「おねがいします」と。
領事と国を代表する公人と、杉原氏個人の立場の間で心が揺れ動いて、悩み抜い
た末でのことだったと考える。事情を聞いた子供の弘樹氏の「かわいそうだよ。
助けてあげようよ」という声と、「私が助けてあげましょうと強く促した」とい
う、気丈な幸子夫人の強い一押しが有ったことを、息子さんと奥さんが話してお
られる。

杉原領事は、妻と子供達に降りかかるであろう事後の災難にも想いを馳せ、憂慮
し、ためらいがあったと思われるが、ここで勇気ある決断をする。この決断は歴
史に刻まれたのだ。体制に従順な日本人には、国際的に知られるような人道の人
は少ない。

決断してからは、一心不乱に、食事もそこそこにビザを書き続けた。当時のビザ
はすべて手書きでこまごまと記入したから、一人分でもかなり手間がかかる。そ
れを数千人単位となると、並大抵のことではなかったのだ。

日本政府からの帰国命令と、ドイツ政府からの退去命令で時間も制限され、寝食
もままならず、ひたすら書き続け、ペンの折れることもしばしばで、ぐったりと
倒れこんで、一息つくシ―ンが一日に何回もあったという。

そして、カウナス退去の日、領事の乗り込んだ列車の窓辺に取りすがって、ビザ
を求めるユダヤ人達と、書き続ける領事、ソロリソロリと列車が滑るように動き
出す。一枚でも多くの書いてあげたい想いとは裏腹に、あせればあせるほどに思
うに任せない筆の走り-----列車が加速する。

「許して下さい。もうこれ以上書けません」「皆さん、さようなら」
見送る残された人達から突如として湧き上がる喚声。
「ありがとう。センポ・スギハ―ラ」「私たちはいつまでもあなたのことを決し
て忘れません」

それから28年後、閉ざされていたこの出来事が大きくクロ―ズアップされたの
だ。「いつまでも忘れない」この民族の約束が実現されたのだ。センポ杉原を捜
しつづけた甲斐があって、やっと元領事に巡り会えたのだ。
命のビザを受けてロシアに入国し、シベリア鉄道でウラジオストックから敦賀に
入る。横浜と神戸から中南米のキュラソ―島へ亡命し、そして生き延びることが
できた。その人達とその子孫達は戦後すぐに、杉原元領事にお礼を言いたくて消
息を尋ねて、日本の外務省に何度も調べに来日していたからだった。しかし外務
省はそういう名前の該当者なしの一点張りで、捜してもらえなかったのだ。

当時のリトアニアの領事といえば、明らかにわかることなのに。
もと領事が外国人に覚え易いように、千畝という名をSENPOというように呼
ばせていたから、センポ杉原という名で問い合わせたことを理由に照会しなかっ
たと思われる。

元領事が帰国後に退任させられ、生活のために得意のロシア語を活かして、川上
貿易でジュ―キミシンをロシアに売り込んでいた頃であったから、国内にいるこ
とは少なかった。たまたま帰国していることに、新しくイスラエル大使館の参事
として赴任してきた、カウナスでビザ発行交渉の代表の一人となっていて、助け
られたシムキン氏が、情報を得て元領事に面会を求めてきたのだ。
「これを覚えていますか」大事そうに抱えて見せられたのはボロボロになったビ
ザで、紛れもなく元領事の発給した手書きのビザであった。

「有難うございました」と万感の思いを込めて固く握手をしたまま、あとは言葉
にならず、ただ涙を流し続けた。その知らせはイセラエルの国をあげてのセンセ
―ショナルな話題として、世界の新聞、TV、雑誌で報道された。残念だが、こ
れは日本ではなく、日本を除く世界中にこのニュ―スは伝えられていった。「恩
人が見つかったぞ」「センポ杉原が生存していたぞ」と大騒ぎになったのだ。

本当に外務省はわからなかったのだろうか?わざと教えなかったという意地悪さ
は無かったのだろうか?当時、杉原という要人は3人しか在籍していなかったと
いうのに。
未だに理解できないところである。この問題は単なるユダヤの人々の問題ではな
く、イスラム、キリスト、神道その他の社会においても、起こされてはならない
ことである。他山の石とする強い自覚が、21世紀以降の地球人に求められると
ころである。

相手がすることは全て間違っていて、自分のすることが全て正しいとする考え方
を改めない限りは、平和は訪れようも無い。
平和はお互いに相手の個性を尊重し、そこから意思が通じ合い平和はスタ―トす
る。
最後にもう一度、杉原千畝元領事の言葉を味わってみよう。
「私は人間として当たり前のことをしたまでだ」
気負わず、淡々と覚悟を決めて、良心の導くままに・・・。
偉業とはそういった中でなされるものかもしれない。

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[135]
┏┯┯┓input-alpha/mail magazine ( 10 ) =============================
┠●┼┨ 発行/2002.09.25
┠┼○┨ 素晴らしい人生のために/今日の応援歌 【第 135 号】
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●人生を生きていくとき、くじけそうになることはありませんか?
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----------◆CONTENTS◆------------------------------------2002 vol.135--
[人の真の価値] ヒュ―マンコミニケ―ションセンタ― 中村豊秀
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かって吉川英治先生の随筆の中に、文章上達の教材の最適なものの一つに、新聞
のコラム欄と、社説をあてておられました。

せいぜい530字以内で、毎日実際に起きた事実の中からタイムリ―なテ―マに
しぼり、それにちなんだ必要な古い記録をピックアップしてぎて、起承転結、み
ごとに自分の言わんとすることを簡潔にまとめ、最後におまけの新知識をさりげ
なく提供してくれる。

そんなことから、私は毎朝、新聞を手に取り、一番先に楽しみにして目を走らせ
るのが、一面下のコラム欄である。

7/27の読売新聞の「編集手帳」で心に響くものがありましたので、ご紹介い
たします。

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以前、プロ野球の解説者、張本勲さんの生涯記録を調べていて、思わずうなった
ことがある。
史上最多の輝かしい金字塔「安打三千八十五」は知っていたので、驚いたのはそ
のことではない。

「犠打四本」――実働二十八年間でわずか四本である。安打を放ち、塁上の走者
をホ―ムにかえす。
その宿命を背負った人の辞書に「犠打」の一語はなかったのだろう。
「犠打四本」は"安打製造機"の勲章でもあるに違いない。

「四」という勲章があれば、一方「五百」という勲章もある。
一昨日の阪神戦で、巨人の川相昌弘選手が送りバントを決め、自らのもつ通算犠
打の日本記録を「五百」に伸ばした。

成功しても晴れがましい「お立ち台」は待ってはいない。もしバントを失敗すれ
ば、観客席から降るブ―イング(落胆)の吐息を一身に浴びる。
労多くして報われることの少ない仕事を黙々として積み重ね、十七年をかけて築
いた記録の塔である。

身を捨ててチャンスを広げる人がいる。それを得点につなげる人がいる。好打し
て得点を守る人がいる。
「四」と「五百」―――二つの勲章を見れば、野球とは、様々な楽器が織り成す
交響楽でもあるらしい。
「金字塔」とは金の字の形をした塔のことで、金色とも金製とも無関係という。
従って、いぶし銀の「銀字塔」・・・そんな言葉はない。もしあれば、その渋い
職人芸に贈ったことだろう。

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私は野球、サッカ―、相撲その他、何によらず前人未踏の記録を樹立した人を尊
敬する。
「プロとアマチュアとは、どう違うか」というと、
アマチュアが長い間、一生懸命努力して、やっとできたということを、さりげな
く、いつでもコンスタントに実現できる人がブロである。
ということを、聞いたことがあります。勿論、そこにいたるまでには、人の何倍
もの研鑽努力を、倦まずたゆまず黙々と積み重ねた結果であることは言うまでも
ない。

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IA magazine 素晴らしい人生のために 毎週水曜日発行(週刊誌) No.135

責任■小林 高一 ko-ko@bb.futaba.ne.jp
執筆■ヒュ―マンコミニケ―ションセンタ― 中村豊秀 LDJ04070@nifty.ne.jp
配信■まぐまぐ 0000026706 http://www.mag2.com/

Copyright(C) 2000-2002 Toyohide Nakamura All rights reserved. 無断転載禁
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