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素晴らしい人生のために/今日の応援歌
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┠●┼┨ 発行/2004.09.01
┠┼○┨ 素晴らしい人生のために/今日の応援歌 【 第 235 号】
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●人生を生きていくとき、くじけそうになることはありませんか?
人生が素晴らしいものであるよう、素敵な言葉の応援歌を送ります。
ぜひ、お読みになった感想をお寄せ下さい。ほんの少しの言葉で結構です。

----------◆CONTENTS◆------------------------------------2004 vol.235 -
テレビ寺子屋[お年寄と子供をつなぐもの] おもちゃ美術館館長 多田 千尋氏
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今日この会場にくる途中で「音戯の郷(おとぎのさと)」という所に寄ってきま
したが、とても楽しかったです。入り口で、それぞれに聴診器が渡されて、館内
の各所に木で作った大きな楽器とか、おもちゃに聴診器を当てて、音を楽しむ仕
組みになっているのです。子供だけでなく、大人も童心に帰って、みんな夢中に
なって耳を傾けて楽しんでます。
実は子供に話す時も大きな声で話すより、「あのね・・・」と内証話のように、
わざとひそひそ話しスタイルで話した方がよく聞くものです。楽器とおもちゃを
楽しむ「音のミュージアム」です。

今日は「お年寄に子供のことを考えて貰いたい」、又そのためには「どうやって
それを繋いだらよいか」についてお話ししたいと思います。

私は多田千尋と言いますが、最近、女の子の名前となりつつあります。以前はな
かなか字を判って貰えず苦労しました。でも「千と千尋の神隠し」の上映以来、
決定的になり、誰でも一遍で判ってくれるようになりました。それまでは尋常小
学校の尋常と言っていましたが、若い人にはなかなか理解してもらえませんでし
たが、今では6,7才の女の子でも漢字だけでも、すぱっと読んでくれます。
ただ誰でも読めるようにはなったが、どういう意味で名前につけているか判らな
い人が多いようです。
この「尋(ひろ)」という字は、長さや深さの単位の一つで、縄の長さを計ると
きの両手を一杯に拡げた約1.5m〜1.8mくらいです。沖を10尋の大きさ
の船が走っているとか、この海の深さは30尋とか言います。だから千尋という
と、かなりの長さ、深さを意味してるわけです。広辞苑では、「計り知れない長
さや、深さのことを言う」と書いてあります。

人生を豊かに、広く、深くという意味で、この映画の主人公に、この名をなぜ選
んだのかと思いましたが、映画を見ればすぐわかりました。何しろ彼女は過酷な
運命にもてあそばれるのです。始まって10分も経たないうちに、両親を豚に変
えられて、奇妙な町をさまよい、仕事を探すのです。いろんな化け物に囲まれた
そのポジションの中で、頑張って生きていく逞しいヒロインに、宮崎はやお監督
はあんまりポピュラーな名前を附けられなかったのだと思います。

私の親が私の生まれて初めてのアルバムの第1ページに、「千尋」の命名の由来
を書いてくれてます。「千の地域を尋ねて、千人の人に会い、千の質問をするよ
うに」書いてあります。つまり、広く旅をしろと言っているのです。旅が勉強だ
ということです。

実際に私は今までに多くのお年寄にお会いしております。今、私はおもちゃ美術
館を各地の老人ホームの中に作りつつあります。すでに北海道から鹿児島まで1
7箇所に設置しております。なぜ、老人ホームにおもちゃ美術館があるのかとい
うと、お母さんが子供を連れてやってきて、一緒に遊んでもらったりしているの
です。

ここには手作りコーナーがあり、指導員がいて手作りのお手伝いをしているので
す。又、図書館と同じように、自分の好きなおもちゃを2週間借り出すことがで
きるのです。又、修理工場があり、かつての国鉄の工場で仕事をしていた人とか
いろいろなエンジニヤの人達がおもちゃドクターとして待機していて、子供達が
持ち込む壊れたおもちゃを修理してくれるのです。
子供達から見たら、神様みたいなものです。
わが子が世界の面白いおもちゃで喜ぶのを、いやがる親はいないと思います。
私は老人クラブに行く度に、お年寄とお話をするのです。

先日愛知県のある老人ホームで感動したことがあります。
部屋でそこの施設長と話しておりましたら、小学生が大勢正面から靴を脱いで上
がってきて、どんどん中庭の方に消えて行くのです。そこで私が「やあ、お孫さ
んがたくさん遊びにくるんですね」と言いましたら、「いや、とんでもない。孫
なんてほとんど来ませんよ。あれはみんな近所の子供が遊びにきてるのですよ」
と言われました。
実は中庭にはフィールドアスレチックが用意してあって、子供達が自由に遊べる
ようになっているのです。

やがてその子供達が汗びっしょりになって帰っていくのです。最近の子供達が一
生懸命に遊んで、汗びっしょりというのを、余り見たことがないので、感激して
そのことを言いますと、又、「どうもあの頭の濡れ方を見ると、どうも風呂に入
ったのですよ」と言われました。そこで風呂場に行ってみたら、まだ3人ばかり
子供達がお年寄たちと一緒に風呂に入っているのです。

しかも驚いたことに、お年寄の方が子供達の背中を流しているのです。「逆じゃ
ないですか」と言ったら、またまた「いやいや、これでいいんですよ」と言われ
ました。更に「あなたも、老人ホームに1年くらい暮らしてみたら、この気持ち
がわかりますよ。周りを見るとみんなお年寄ばかりだから、可愛い子供達が物凄
く新鮮に感じられ、可愛くて仕方がないのです」
そしてお年寄が子供の背中を流しながら、後ろからやるから会話が弾むのです。
「学校は面白いかい。どんな勉強が好きなのかな。お父さんはどんなお父さんだ
い・・」等々。すると子供達は自然に「給食と体育だよ、お父さんはこわい。お
母さんは優しい」などと話しています。
これが自然な会話になっているのです。もし子供がお年寄の背中を流してるとし
たら、こうは会話ははずまないでしょう。子供は「早く終らないかなあ」と思い
ながらやるだろうし、よもや「いやあ、いろいろと人生あったでしょうね」と言
う会話はなかったでしょう。どちらがやるかが問題なのです。

お年寄と子供達との架け橋が大事なのです。
その架け橋役が、おもちゃなのです。
お年寄はたくさんの引き出しを持っているんです。ただそれを忘れていたり、開
けづらくなっているだけです。だから又遊ぶことによって、思い出してもらいた
いのです。コンピュータゲームなどでなく、郷土のおもちゃや遊びを子供に教え
てあ-て欲しいのです。

おばあちゃんは子育てを実際に経験しているが、おじいちゃんは子供が小さい頃
は、仕事で忙しくて、なかなか一緒に遊べなかったのが、やっと孫と一緒になっ
てゆっくりと遊べるのがとても楽しみなんです。

沖縄には、琉球の頃から伝わっている「フアーカンダ」という言葉があります。
「フアー」というのは葉っぱという意味です。「カンダ」というのは「蔦」と言
う意味です。これは、親と子供の関係を「親子」兄と弟の関係を「兄弟」夫と妻
を「夫婦」というように、お年寄と孫の関係を表す言葉です。

他の縣ではこれと同じ意味を持った言葉を私は聞いたことがありませんでした。
以前、沖縄で講演した時、そのことをお話したところ、一番前で聞いていた85
才のお年寄が、「いやあー、久しぶりに懐かしい言葉を聞いた。沖縄の人からな
らまだしも、東京の若い人からこの言葉を聞いて、恥ずかしい気がしました。昔
のことを思い出さしてくれて、本当に有難う」ととても喜んでくれました。
沖縄ではお年寄が孫と散歩すると、近所の人に「この子供は二番目の孫でやっと
歩けるようになりました。まだまだ小さいが今後ともどうぞよろしくお願いしま
す」と、時候の挨拶と同じくみんなにお披露目をしているのです。お年寄と孫と
の関係は切っても切れない関係にあるのです。

今、どのくらいお年寄と孫が触れ合っているでしょうか。遠く離れて、年に一遍
くらいというのが多いのではないでしょうか。そこでお小遣いの額でということ
でしょうが、おもちゃで一緒に遊ぶ触れ合いがもっともっと大きい価値があると
思うのです。お年寄の知恵と技で頑張ってもらいたいと思います。
お年寄と触れて育った子供達は情緒が安定している。
子供が驚いた時、感動した時、嬉しかった時共鳴者になってあげるお年寄が欲し
いのです。蟻んこが何か虫を運んでいるのを子供が夢中になってみている時、し
ゃがみこんで一緒になってじっくりと観察してくれるのはお年寄だけだ。

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┏┯┯┓input-alpha/mail magazine ( 10 ) ===============================
┠●┼┨ 発行/2004.09.08
┠┼○┨ 素晴らしい人生のために/今日の応援歌 【 第 236 号】
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●人生を生きていくとき、くじけそうになることはありませんか?
人生が素晴らしいものであるよう、素敵な言葉の応援歌を送ります。
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----------◆CONTENTS◆------------------------------------2004 vol.236 -
テレビ寺子屋[遊びの天才] おもちゃ美術館 館長 多田 千尋氏
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今の子供達はおもちゃは買うものと考えているが、実は作って遊ぶ楽しさを知っ
て貰いたいと思って、おもちゃ美術館というのをやっております。またその工程
がすでに遊びになっているのです。
そしてお年寄はそのおもちゃを作る知恵や技を持っているのです。痴呆症になっ
ているおばあちゃんでも、お手玉を見事にあやつります。最近のことはすぐ忘れ
ることはあっても、身につけた技は忘れないものです。たかが遊びと思われます
が、遊びは人生を表していると思います。
心の栄養素です。しかもお年寄と子供は両方とも遊びの天才です。

2年前モンゴルに行き、大平原の遊牧民の所にホームステイをしたことがありま
した。いろんな方のつてを求めて、ウランバートルから車で3時間くらい走った
ところで、道に迷って、人に〇〇の家族はどこだろうと聞きましたら、1ケ月程
前にあっちの方で会ったという程度で、さっぱり見当もつかないという状態でし
た。
とにあれ、私と小学校3年生の息子と二人である一家のお世話になりました。ゲ
ルという、大きなテントの家が三つある家族で、大人と子供がそれぞれ、7,8
人づつの大所帯でした。向こうでのホームステイというのは、当然ですが、家事
を分担して仕事をするのです。
まずは、二人で500メートルくらい離れたところまで水汲みに行くのが、役目
でした。その外、羊の乳搾りや、カラカラに乾いた糞を燃料にする為に拾い集め
るのが日課です。マッチを擦れば、ボッとすぐ火がつく貴重な燃料です。冬場は
特に貴重品です。

夜、満天の星空のもとで、車座になってみんなに話をするわけです。みんなは日
本の話をしてくれとせがむのです。
私はみんなに喜んでもらおうと思って、「皆さん方が誇りをもっている、お国の
有名な「スーホーと白い馬」の話も、小学校2年の教科書に載っていて、日本の
子供達はよく知っているんですよ」と話しをしたのですが、子供達はみんなポカ
ンとしているのです。聞いてみると知らないのです。
あれは内モンゴルの話で、外モンゴルの人達は知らないのです。それで、私が詳
しく、話してあげたら、皆ポロポロ涙を流しながら、「さすがはわが民族は素晴
らしい」と喜んでくれました。

そこで、私は二つ目の話をしてあげました。それは「石になった狩人」という話
です。
ある狩人が森の王女の命の恩人になったのです。
そこでその父親である王様が「お礼にここにある金銀財宝の中で、何でも欲しい
ものを与えよう」と言いましたが、その狩人は、それらには一切目もくれず、
「ただ、王様が口に含んでいる魔法の球が欲しいです」とお願いしました。
その魔法の球は丁度飴玉のように、口の中に含んでいると、あらゆる動物の話し
声がわかるという不思議な魔法の球でした。王様は約束ですから「よろしい」と
それを与えました。

さあ、それからというものは狩人は非常に楽になりました。なにしろ、あらゆる
鳥や動物の話していることが判るのですから、狩が非常に簡単になって、大喜び
です。
ある時、多くの動物や鳥達が大慌てで、一斉に高台の方に向かって、口々に「大
変だ、もうすぐ大雨が降ってきて、ここら辺は大洪水になるぞ。みんな今のうち
に逃げろ」と叫びながら、走っていくのです。
その情報をキャッチした狩人は「これはいかん。みんなに知らせて逃げないと大
変なことになるぞ」と急いで皆のところに帰ってきて、村人達にこのことを伝え
て、「早く逃げろ」と言ったのですが、皆は誰も信用しないで、逃げようとしな
いのです。
それは雨がほとんど降ったことがないので、狩人がいくら口を酸っぱくして説得
しても、無視して、頭から信じよういとしないのです。

実は王様から魔法の球を貰ったとき、
「動物の言葉がわかる、というこの秘密は決して、誰にも言ってはならない。も
しそれを破って他人にこのことを教えたらお前は忽ち罰が当たって石になってし
まうぞ」と固く注意されていたのです。
それで狩人はどうしょうかと悩むのですが、みんなの為なら私の命なんて惜しく
ないと決心して、村人達に「実は私は動物達の言葉がわかるのだ」というその秘
密をばらして「どうか、俺の言うことを信じて早く逃げてくれ。これを話したら
私はその罰で石になる。もし私が石になったら、信じて逃げてくれるか」と必死
になってみんなに説得を続けたのです。
その瞬間、狩人は忽ち、石像になりました。それを見て、村人達も昔大騒ぎにな
って、この青年は自分の命をかけて話してくれたのだと、やっと信じて、一斉に
大慌てで全員が避難をしました。やがて落ち着いて、村人達が帰ってきたら、村
には自分の命を犠牲にして、みんなを助けた狩人の石像がぽつんと残されており
ました。
この話をしたら、子供たちは目を真っ赤に泣きはらして、自分たちの先祖は素晴
らしかったんだなと、感激しておりました。

そうしたら、あるおじいさんが、ストンと立ち上がってみんなに向かってとうと
うと話を始めたのです。通訳の人に聞いてみたら、「わしは、若い頃その石像を
見たことがある。」という話をみんなに得意になって話しているのです。
私は唖然として「えっー、うっそー。このおじいさんは一体何を考えているだろ
う。冗談じゃないぞ」と思ったのですが、何と驚いたことにみんなは熱心にその
話に耳を傾けて聞いているのです。
そして「それはどこにあるんですか」と質問をしはじめたのです。するとそのお
じいさんは「馬に乗って、こちらの方向に三日間行ったらその村がある」と誠し
やかに話しているのです。皆は又熱心にその話に聞き入ってました。
私はその時、呆れるよりも、むしろその反対に「ああ、モンゴルの人達は本当に
お年寄を尊敬しているのだなあ、と感動しました。

モンゴルから帰ってきて、「お年寄と子供達との関係」ということについてもう
少し研究してみたいと思いました。老人ホームの反応や、外国の老人ホームにつ
いても調べてみました。
ベイゴマで遊ぶのも、子供達はなかなかうまくいかないのを、車椅子に乗った、
右手の不自由なお年寄が、左手であざやかな手さばきで見事にこま回しをしてく
れたりします。

ついさっき食べた昼ごはんのことは忘れていても、子供の頃自然に身につけたこ
とは、体が覚えていて、忘れていないのですね。その技に子供は尊敬の眼で見つ
め、親しみを感ずるのです。

子供とお年寄には幾つもの共通点があります。
まず、繰り返しを楽しむという特技を持ってます。毎日砂場で遊び、毎日同じ絵
本を読んでもらっても飽きない。しかも何回も読んでくれとせがむ。毎日同じ話
を聞いても、又話してと要求する。これも同じことを繰り返し、繰り返し続ける
ことによって、本当に身につけさせるように、神様がちゃんとそのように仕組ん
でいるのかも知れません。

お年寄も同じ話を飽きることなく、何回も、何回もします。
現役の大人達は、「もう耳にたこができているよ」と敬遠しがちですが、お年寄
はそんなことは全く気にしません。

子供は又、聞きたがり屋です。「どうして、なぜ、なんでそうなるの」としつこ
く聞いてくるので、大人は辟易することもあるでしょう。
しかし、これも一日も早く大脳に知識を溜め込もうという、潜在本能のなせるわ
ざなのです。

一方、お年寄にかつての子育ての苦労話や、若い頃の話をしてもらったら、止め
度もなく、よく覚えているなと思うくらい、話してくれます。

更に巧まざるユーモアの持ち主です。以前、幼児を連れた知人が家にいらっしゃ
ったので、店やものを注文しました。
「タヌキうどんと、キツネそばを二つづつ」と頼んだところ、暫くして2才半の
子供が受話器を取って、耳にあて、「キリンさんとゾウさんもお願いします」と
言ったので、大笑いになったことがありました。

どうぞお年寄とお孫さんがおもちゃを媒体として、お互いに仲良くコミニュケー
ションを図っていってもらいたいと思います。

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┏┯┯┓input-alpha/mail magazine ( 10 ) ===============================
┠●┼┨ 発行/2004.09.15
┠┼○┨ 素晴らしい人生のために/今日の応援歌 【 第 237 号】
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●人生を生きていくとき、くじけそうになることはありませんか?
人生が素晴らしいものであるよう、素敵な言葉の応援歌を送ります。
ぜひ、お読みになった感想をお寄せ下さい。ほんの少しの言葉で結構です。

----------◆CONTENTS◆------------------------------------2004 vol.237 -
テレビ寺子屋[家族だからこそ言いたい言葉]
シンガーソングライター こんの ひとみさん
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私は今、小学6年生と、高ニの二人の男の子を持つ母親ですが、若い頃に考えて
たのは、50才くらいになったら、落ち着いた女性になっているだろうなと想像
してましたが、いざ、自分がその年になってみると、まだまだ浮ついていて、も
う一寸大人になりたいなと思っております。

子育ての本を読んでも、うちはこんなじゃないとか、生意気なことを言っていた
と思います。多分おばあちゃんになったらわかるのでしょう。子供が1才になっ
た時、お母さん年令が1才になったとすると、今は丁度、お母さん年令で思春期
というところでしょうか。せめてお母さん年令の成人式を迎えるまでは、まだま
だ子育てに努力すべきでしょうね。

今日は「お母さん」ということでお話したいと思います。

「お母さん」「なーに?」
「お母さんっていい匂い。洗濯していた匂いでしょう。
シャボンの泡の匂いでしょう」

皆さんが小さい頃、困った時に、誰を呼んだでしょうか?
友達と喧嘩して、学校で仲直りが出来ず一人ぽっちになった時、何か大事な物を
した時、お母さんと呼んだでしょう。悪いことをした時は、いっぱい叱られたで
しょう。
でも本当に困った時、「お母さん」と呼んだら、きっと、お母さんは、「どうし
たの、何かあったの」と一緒になって、考えてくれたり、場合によっては一緒に
泣いてくれたりしたでしょう。
やさしく、背中を撫でて、慰めてくれたでしょう。

「お母さん」「なーに?」
「お母さんっていい匂い。
お料理してた匂いでしょう。卵焼きの匂いでしょう。」

今年1月3日、急に母が亡くなりました。私ももういい年ですから、母も70代
後半でした。とても元気でした。今は70代でもお元気な方が多いと思います。
私もまだまだ、あと5年、10年、15年も、時々は喧嘩しながらも仲良くやっ
行きたいと思っていました。
その日もとても元気で、主人が子供とちょっと近所まで出かけてくるというのを
玄関まで送ってきた時、次男がサッカーボールを持って行くというので、おばあ
ちゃんが取ってきてくれて、「気をつけていっていらっしゃい」と送り出しまし
た。

暫くして、私の携帯が鳴り、出てみると、思いがけなく、私のとても親しくして
いただいている方が急に亡くなったというお電話でした。驚いて、取りあえずお
伺いすることになり、まず母に一言連絡してと思って探したのですが、見当たり
ません。おかしいなと思ったら、トイレに電気がついてます。普通なら誰か消し
忘れたのかと思うのですが、虫の知らせか気になってノックをしたのですが、返
事がありません。
おかしいなと重いドアを思いっきり引っ張ったところ、ドアーと一緒に母が私に
覆い被さって倒れてきました。一瞬、何が起こったのかわかりませんでした。ま
だ唇が震えて、何か言おうとしていました。急いで、救急車を呼んだのですが、
間に合わずに、私の腕の中で天に召されました。

かわいそうなのは長男でした。
私の長男は脳に障害があって、紐を結んだり、蓋を開けることがうまくやれませ
ん。だんだん大きくなって、自分が他人と違って、できないことが気になって、
イライラしてたのですが、おばあちゃんがついつい見かねて手を出すと、思わず
「うるさいな、あっちに行けよ」と追い払ったのですが、
「それが最後になっちゃったんだ。後から謝ろうと思ってたのだが、もう出来な
くなっちゃった」と泣いてました。
あのあとおばあちゃんが「ミカンを食べるかい」と持ってきてくれたのだが、そ
の時はまだ謝らなかったそうなので、余計に辛かったのでしょう。心から後悔し
て泣いてました。

でも後悔しなければならないのは、実は長男だけじゃなくて、私自身こそが、母
に謝らなければいけなかったのです。
私の母は、ある事情があって、女手一つで、私を育ててくれたのです。そこで意
地を張って、やってきたのです。そのせいか私もいつしか意地をはって、母に素
直になれずに、逆らったことも何度かありました。
ありがとう、ごめんなさいお母さんと言えなかったのです。今でも、心の中で渦
を巻いてます。

一番胸に染み込んでいる歌があります。

鈴木信夫さんは小学生の頃、筋ジストロフィーという難病にかかり、30代まで
長い間、呼吸器をつけて頑張っている方です。
最近ようやく指先が動いて、ワープロが使えるようになり、「ありがとう、ごめ
んなさい」という歌を作りました。

神様、命を与えて下さり、ありがとう。
神様、命を大切に出来なくてごめんなさい。

お母さん、産んでくれてありがとう。
お母さん、私が生まれてきてごめんなさい。

お父さん、支えてくれてありがとう。
お父さん、期待に答えられずにごめんなさい。

神様、試練をくれてありがとう。
神様、人生を恨んでごめんなさい。

お母さん、愛を与えてくれて、ありがとう。
お母さん、自由を奪ってごめんなさい。

お父さん、認めてくれてありがとう。
お父さん、我慢させてばかりでごめんなさい。

ある中学校で家庭科の時間に、この歌が流れたそうです。
すると生意気な一人の中学生が涙をこぼしながら「先生、僕わかるよ、この間、
ウルセェヨ!と言ったら、お母さんがドアの向こうで泣いていた。」

家族だから照れくさくて、ありがとうが言えない。
意地をはってごめんなさいと言えない。

「みんな、ありがとう。ごめんなさい。でもありがとう」

照れくさくって、家族だから、言わなくても通ずるだろう。
でもこんな時代だからこそ、小さな子供にも、ありがとう、ごめんなさいと言い
ましょう。
躾のつもりで叱ってたつもりが、つい口がすべっちゃって、つい大きな声で怒鳴
ってしまい、あとから、ここまで言わなくてもよかったなと反省して、小さくな
って、体を丸めて寝ている子供に向かって、
「昼間、怒鳴っちゃってごめんなさい」と言ってごらんなさい。

ありがとう、ごめんなさい、とってもとっても大事な言葉です。きっとそのうち
に、子供の方からも、ママ、ありがとう、ごめんなさいと戻ってくるでしょう。


自分も小さい頃、お母さんありがとう、ごめんなさいといったでしょう。
時々思い出すのです。
「ほら、ぐずぐずしないで、もっと早くさっさとできないの」
と、怒鳴ってますが、自分も子供の時はぐずぐずしていたのを。

子供達に聞いて見ると、お母さんが怒っている時と、電話の時と声ががらっと変
わるよと言ってました。

中学生の息子が成績表を持って帰ってきたので、見てみると、余りにも良くない
ので、どこか褒めるところが無いかと探したら、やっと数学だけが、ほかの科目
よりいいのを発見。
早速「偉いわね、お母さんは数学が一番苦手だったのよ」と言いましたら、くし
ゅくしゅとした顔をして、自分の部屋に引っ込んだのですが、夕食の時になって
「お母さん、実は今度の試験失敗しちゃったよ。この次は頑張るからごめんね」
と言ってくれました。

お母さんの声の調子が変わると子供も変わります。

ママ、お母さん、おふくろといろいろと呼ばれることがあるでしょう。
私は母と突然の別れになりましたが、皆さんのお母さんはご健在でしょうから、
どうぞ、時には電話でもいいから、
「元気?私も元気よ」だけでもいいから、言って上げて下さい。きっとお母さん
は喜んでくださると思います。

なかなか照れくさくて「ありがとう」「ごめんなさい」と言えないかもしれませ
んが、家族だからこそ、伝えたいことば、伝えたい心があると思います。
一緒におなかの底から、あれ見て、これどう、と楽しく話し会えるためには、お
互いが素直に「ありがとう」「ごめんなさい」と心から言い合いましょう。

言わなくても、明日がある、なんて言わないで下さい。
突然ということもあるのです。私みたいに後悔しないうちに、いい思い出を沢山
作っていって下さい。

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┏┯┯┓input-alpha/mail magazine ( 10 ) ===============================
┠●┼┨ 発行/2004.09.22
┠┼○┨ 素晴らしい人生のために/今日の応援歌 【 第 238 号】
┗┷┷┛================================================================

●人生を生きていくとき、くじけそうになることはありませんか?
人生が素晴らしいものであるよう、素敵な言葉の応援歌を送ります。
ぜひ、お読みになった感想をお寄せ下さい。ほんの少しの言葉で結構です。

----------◆CONTENTS◆------------------------------------2004 vol.238 -
テレビ寺子屋[私の故郷、中国は今] 歌手、教育学博士 アグネス・チャン
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今日は今の中国についてお話したいと思います。私は香港で生まれたのですが、
香港は、皆さんご存知のように、1997年までイギリスの植民地でしたので、
私は生まれながらのイギリス人です。
小さい時、鏡を見て悩みました。私は中国人の筈なのに、なぜイギリス人なのだ
ろうかと理解できずに、母に聞きましたら、母は「人に聞かれたたら、絶対イギ
リス人と言わなければいけないよ。もし国はどこですかと、そんな微妙な質問を
受けたら、その時は逃げなさい」と言いました。

1949年に中国は内戦により、バラバラになり、中国本土は共産主義になり、
台湾は独立の形をとり、香港はイギリスの植民地のままでしたので、なかなか交
流がうまくできなかったのです。政治の壁が厚かったのです。

父母の生地は中国の田舎ですが、帰れないのです。然し80年代からだんだん開
放的になり大きく変わり始めました。経済的なものもあります。母の故郷は生活
が厳しく、食べ物もなく、着るものもなく、屋根もなく、とてもひどい状態だっ
たのです。
たくさんの香港の人がお金を投資して、小さい仕事を始めたことが起爆剤になり
仕事をしたいという人が集まり、熱心に働き、だんだん経済の発展が早くなりま
した。日本もアメリカも投資が増えてきて、安い人件費で事業ができて、80年
から90年にかけて、大きく成長してきました。一時は日本も抜かれるのではな
いかと思われたのですが、でも最近は又変わったのです。
つまり物を買うようになってきたのです。昨年は、日本の輸出額もアメリカを抜
いて、中国が一番になったのです。これまでになったのは、とても長い道のりで
した。
1972年に国交成立し、日本の物は一番で、今、中国は2008年のオリンピ
ックバブルで、上海は万博に向けて整備を始め、建物や、道路、新幹線等の設備
投資で鉄鋼、エネルギー等を日本からの輸入で、日本の製鉄所や造船所の景気も
よくなったと思います。
周りもだんだんよくなり、今は、共存共栄の中国成長とアジアの人達も言うよう
になってきたのです。昔は鉄道でやっていたのですが、冷戦の時は国によって通
れなっかったんで、船とか、飛行機を使ってたのですが、今は陸続きでスペイン
までも行けます。輸送費も安くなります。東南アジアの国にも援助して、鉄道を
普及していくようになったのです。思えば長い道のりでした。
親戚達の生活も、最初はとても貧しかったので、家も服も満足になかった状態で
した。

最近中国へ帰ってきました。
父の郷里は東こうという所です。香港に近いところです。虎門といって、アヘン
戦争の頃、有名な場所だったのです。香港から船で1時間半くらいのところで、
今は外国の会社の工場がたくさんあるところです。
私が初めて父の故郷へ帰ったのは97年でした。その時はまだ貧しい村だったの
ですが、2004年に再び行った時はびっくりしました。村の役所がなんと17
階のビルが建っているのです。凄い広場もあるのです。ところが部屋は半分以上
空いているのです。大広間があり、テーブルがあって音楽もあり、みんなで踊る
ことができるようになってます。楽しい生活になったのだなと思いました。
外資が入って、洋服とか、コンピュータの工場があり、村人も何千人か仕事がで
き、更に地方から何万人の人が集まってきているのです。もう農民として畠を耕
す必要がなくなったのです。農民は、土地は村から貸してもらっているので、そ
れから家賃が入ってくる。
村全体が株式会社になっている。男だけだが、株主になっているので、その配当
もある。十分贅沢に暮らすことができるようになった。借りた土地は平等で、赤
ちゃんからおばあちゃんまで、家賃が貰える。男の人が成人になったら、土地が
もらえて、家も建ててくれる。庭もついている。
だから、私の弟も引退したら村に帰ると言ってます。面白い共産主義です。

そこで、兄弟でお金を出し合って、お墓を建てたのですが、それが出来上がった
というので、親戚一同で集まったのです。ところが行ってみて驚きました。5階
建てのビルなんです。お墓は家みたいに作るのです。ちゃんとした部屋があり、
家族が先祖と一緒に泊まれるようになっているのです。昔からそういうしきたり
があるのです。
ところがお金が集まってお墓を作ろうとしたのですが、土地が只なので、立派な
ものが出来上がったのです。総大理石で、シャンデリアがついているのです。屋
上は子供の遊べるような庭園になっているのです。うちの母は、今度友達を連れ
て遊びに来ようと言ってました。私もこれからホテルに泊まらずに、ここにしよ
うと思いました。
ところが、親戚はの皆はまだ不満があるのです。というのは、隣にもっとゴージ
ャスなのができたのです。いきなり成金になったのです。
そうすると又、村は村なりに、悩みと問題が起きてきたのです。
人間は普通働かないと嬉しいものですが、程度問題ですね。不満なのです。
女性から不満の声が出てきたのです。男が暇になると碌なことがないというので
す。仕事がないと、酒を飲んで、いつもイライラしているのです。何か仕事を探
して下さいというのです。だから、最近の村の役所の仕事はそのことが多くなっ
ているそうです。
でもこれは裕福な人達です。やはり問題なのは貧富の差があることです。
幸せな人は海沿いの所とか、特別区の人は金持ちがいるのですが、内陸の川がな
い、山奥の人達は、今でも食べられない状態なのです。するとそこへ行って女の
人をお金で買ってくるのです。嫌だといったら、鎖をつけるということもして、
子供を産ませるということもするのです。

先日久しぶりに上海に行きましたが、東京と同じ位になってました。5円でも食
べられるかと思うと、一方では物凄くゴージャスな所もあるのです。49年から
もう50年以上経ちましたが、随分と楽しそうになりました。
これからも近い大国の日本と仲良く、いろいろと相談しながらやっていかなけれ
ばと思います。
日本と中国でアジアの平和をお互いに守っていきたいと思います。もし乱れたら
忽ち10何億の人達がどん底の生活になるかもしれないのですから、頑張ってい
きたいと思います。

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┠●┼┨ 発行/2004.09.29
┠┼○┨ 素晴らしい人生のために/今日の応援歌 【 第 239 号】
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●人生を生きていくとき、くじけそうになることはありませんか?
人生が素晴らしいものであるよう、素敵な言葉の応援歌を送ります。
ぜひ、お読みになった感想をお寄せ下さい。ほんの少しの言葉で結構です。

----------◆CONTENTS◆------------------------------------2004 vol.239 -
テレビ寺子屋[ビックリハウスの残したもの] エッセイスト 高橋 章子
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私は1975年から85年まで「ビックリハウス」の編集長をやってました。
これは月刊誌で、全国の読者から「パロディー」の投稿を募り、「ビックラゼー
ション」というコラムに載せていました。例えば、当時ラコステというワニのマ
ークがあったのですが、安いポロシャツを洗濯屋にだして、「ワニの刺繍をして
くれ」と頼んで、やがて届けられたのをみたら、大きく「ワニ」と二文字が刺繍
されてました。

面白い角度からみた原稿が、毎日ダンボール一杯くらい、送られてくる状態でし
た。コラムが10個ほどあり、あれに載ったというのが、自慢の時代でした。ラ
ジオに投稿するのが一般でしたが、それだと聞き漏らしたらそれまでですが、活
字ですと、ちゃんと残っていて、時々押し入れから引っ張り出して、
「どうだ、俺の名前が載ってるぞ」と威張ったりしてました。
「面白い話」を載せてました。又「教訓カレンダー」というのも作ってました。

例えば、「石橋を叩いて渡れば、折れてしまった」とか「溺れる者、藁をも掴む
というが、掴んだら溺れた」「1+1=2」ではなく、もしかしたら「1+1=
3」かも知れないということも「あり」という世界でした。

当時私は武蔵野美術を出て、絵を描いてたのですが、自信を無くして、人嫌いに
なっておりました。ごみ出しの日に表に出たら、近所の人達から、「お前は一体
どういう考え方をしているんだ」と言われるような気がして、ますます引きこも
りの状態でした。そしてそんな時はたらふくものを食べて、食べてる時だけは悩
みを忘れるといったことの走りみたいなものでした。

そんな時、「卒業して、何か困ったことがあったら電話しなさい」と言ってくれ
てた女の人に電話をしました。実はそれもかなり当時の私には勇気のいることで
した。
すると彼女は「今、ビックリハウスという雑誌の仕事をしているのだけど、手が
足りないので、手伝って欲しい」と言ってくれました。でも私は「到底、私なん
かにはそんなことはできない」と断ったのですが、「いや、これはバカでもでき
るから大丈夫よ」と強く勧められたので、それなら行ってみようかと行ったのが
きっかけでした。最初は勿論アルバイトで、窓のない部屋で、ダンボール一杯の
投稿文のハガキを黙々と、時々クスクスと笑いながら仕分けしてました。

当時の初代編集長は、荻原朔美という荻原朔太郎の孫の男性でしたが、割りと飽
きっぽい人で、他の企画の雑誌もやりたがっていました。当時寺山修二さんがよ
く遊びに来てました。そして「牛乳が欲しい」と言われましたが、会社は貧乏で
牛乳や冷蔵庫も無いという状態でした。仕方がなくコーヒに入れる粉ミルクを缶
に入れて、砂糖を混ぜて、ミルクを作り、牛乳ですと言って渡しました。とても
おいしいと言って喜んでくれました。又、編集長がいない時にもフラッとやって
きて何にも言わずに、「あれ頂戴」と言ってミルクを欲しがるのです。
来てもただ黙っているだけなのですが、ある時、初代編集長が「別のことをやり
たいが、今の雑誌をどうしょうかと思っているのだ」と言いましたら、「何言っ
てんだ、ちゃんとすぐ傍にいるじゃないか。高橋君にやってもらったらいいじゃ
ないか」と私を推薦してくれました。

もともと私は教員の子供でしたから、女性が仕事を持つということに、何の抵抗
もありませんでしたし、むしろ当たり前と思ってましたので、一応断ったのです
が、仕方なくお引き受けしました。それが75年で、爾来85年まで編集長をや
ることになったのです。
当時編集長と言えば、早稲田や東大を出て、編集者で仕事をして、デスクから、
副編集長をやり、ようやく編集長になり、暫くしたら停年というのが普通でした
ので、23才の女編集長ということで、当然叩かれました。
「嫌だ、なりたくない」と言ってたのにと、愚痴ると、荻原さんが、「誰もあん
たなんか期待してないよ」と言われました。それで、私はまさに目からウロコの
状態で、今までは、批判を怖れ、褒められたい、もっと部数を伸ばしたいと思い
あがって、夢中になっていました。自意識過剰だったんです。
私はこれ以上でもこれ以下でもないと開き直ったら、なんでも有りという気にな
りました。見得を張っていると駄目ですね。何でも楽しくなりました。

よく竹中直人さんも遊びにきてました。電話が鳴ったらさっと気軽に出てくれる
のですが、松田優作の物真似で応答するのです。ナンシー関さんもよく来ました
が、ただ黙って座ってクッキーの缶から消しゴムを出すのです。ついこちらも、
「何なの」と聞きますと、消しゴムの裏に絵を掘り込み、判を作って押す。デザ
インの女の子がこれを是非載せてくれと言うのです。私はあまり乗り気でなかっ
たのですが、一人でもいいから、面白いと言う人がいるのならと思って、載せて
みたところ、何とそれがバーンとヒットしたのです。

「サザンオールスターズ」の「勝手にシンドバット」のデモテープを持ってきた
のですが、私は自分のだみ声にもかかわらず、こんな湘南バンドなど、絶対売れ
ないわと言ってたのですが、何と3ヶ月後に大ヒットしたのには驚きました。
今原稿を書く仕事をしていて思うのですが、集団作業がすきなのです。思いも寄
らず展開していくのです。男ならこんなこと、見得を張ってやろうとしないので
すが、私はなんでも面白いと捉えてやってきました。

有名人に参加してもらったら面白いと思って、大江健三郎さんに雑誌とハガキ3
枚同封して、手紙を書き、何か投稿して下さいとお願いしましたところ、やがて
葉書が1枚来たので、喜んで見ましたが、たった一文字、「否」と書いてあるの
です。つまり、「断る」という意味でした。

読者の皆さんと遊ぶための笑いを提供するという感覚でやっておりました。
私自身学んでた作家先生は沢山いらっしゃいました。別にコツはありません。
ある時、和田誠さんが以前「話しの特集」に「ビックリハウス」のことを「低俗
極まりない雑誌だ。あれはパロディではない」と評論してましたので、私が
「和田君、どこが低俗なのよ。もしそう思うのなら、あなたも参加してみたらわ
かるんじゃないのですか」と言いましたら、次の日からページに参加してくれま
した。
糸井重里さんが、「高橋君、いくらなんでも天下の和田さんに君呼ばわりはちょ
っとひどいよ」と言われたので、私はすぐ和田さんと呼ぶように改めました。和
田さんからはいろいろと学ばせて頂きました。

私は編集者とかマスコミは不良じゃないといけないと思います。
どうも最近のジャーナリストは、あの当時の捨て身の編集をする人がいなくなっ
たような気がします。例え売れなくても、面白いものには体当たりするんです。
どうも最近の編集者は、みんなサラリーマン化しちゃって、こういう企画だと売
れないのじゃないかと二の足を踏んで、あまり面白くなくなっているんじゃない
かと思います。
当時は売れてなんぼのもんじゃいといった気風でしたから、人と違う企画を立て
て、それが評価されるのが楽しみでした。それが、なるべく他の人と同じように
して、これでどうだではこちらも読んでてつまらないと思う。

私もまだパワーがあるから、もういっぺん「ビックリハウス」をやってみないか
という話しもあるのですが、考えてみれば編集はかなりのエネルギーを使うので
す。あの頃は毎晩のように徹夜か酒を飲んでいたのですが、最近は2,3日徹夜
したらその原稿の文字はかなり乱れていて、自分でも判読しづらい字になってま
す。つくづくパワーが落ちたなと思います。
1+1=3かも知れない。
私は今51才ですが100まで生きる予定にしてます。何をやってもいい。何か
出来るかということは、今日か、30年後かも知れない。女優になるか、山奥に
籠って芋を掘っているかも、あるいは銀座でバーのママになっているかも知れな
い。
人生楽しくやろうじゃないですか。皆さんご一緒にやりませんか。

何かやる時、失敗したらどうしょうと考えるよりも、それだけ多くの経験をした
と考えて、二度とこの失敗はしなければいいのじゃないですか。

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IA magazine 素晴らしい人生のために 毎週水曜日発行(週刊誌) No.239

責任■小林高一/インプットアルファ現代情報研究所 ko-ko@bb.futaba.ne.jp
執筆■中村豊秀/ヒューマンコミニケーションセンター ldj@if-n.ne.jp
配信■まぐまぐ 0000026706 http://www.mag2.com/ 登録と削除もこちらから

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